今日の新聞に “家事と愛とすれ違い”についての作家のエッセイが載っていたので紹介したい
家事というのは 一人暮らしであれば極めて単純だ
というのは 人間が一人で生きているだけの話なのだから ゴミがどこに落ちていようと
ゴミ箱があふれていようと一人きりの問題であるからだ
これが2人 3人 ・・人との暮らしとなると面白さとともに ややこしくもなってくる
先ず 家事をやる方とやらない方という別が生じるが 気づいた方がやるということにすると
たいてい一方ばかりがやることになる
これは やらない方に悪気があるというわけではなくて 気づかなかっただけということもある
廊下にゴミが落ちていた テイッシュの空き箱が放置されていた 野菜室に古い野菜が残されている
といった事柄は 何が気になるかの話である
気にならない人というのは 燃えるゴミの日の朝 廊下に袋詰めされたゴミ袋が置かれていても
何も気にはならないのである
ああ ゴミ袋があるな と思うことがあるかさえも怪しい ただ横を通り過ぎるだけで悪気はない
家事のルール決めは想像以上に難しいもので
それはなぜかというと 「常識」というものがそれぞれに異なっているからだ
醤油や塩の蓋をどれくらいきちんと閉めるか 玄関の靴はどの程度整然とさせるか
風呂掃除の程度などなど ある人にとっては「だいたいできているのと同じ」
ものが別の人にとっては「全然できていない」と感じられるものであったりするからだ
「家事ができない人」というのはよく 「何か手伝うことはない?」と聞く
たとえゴミ箱が溢れていても 食卓やテーブルの上に郵便物が散乱していても
たたまれていな段ボールの横に立っていてもそう尋ねる
悪気はない むしろ役に立とうと頑張ってはいるのだ
残念ながら 家事は「役に立とう」と思い立ってやるものでも「手伝う」ものでもなくて
そこに生活する人間が365日 相手との生活を継続していくためにやっていくものだ
ということに思いが至らないためだ
自分が何かをしたことにより かえって相手の負担が増えた場合 家事としてのポイントは下がる
下手をすると最初から何もしなかった時よりも下がるので
いっそ何もしないでということにもなってしまう
家事をやる方 やらない方との距離はさらに広がってしまうことになるようだ
家事というのは 人が家族や相手と暮らしていくために生じる現象なのだからこそ
こうした家事と愛とのすれ違いに 心して 気配りを忘れずに生活していきたいものだ
では、
エンジョイ! 家事
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