今日の新聞に “家事と愛とすれ違い”についての作家のエッセイが載っていたので紹介したい
家事というのは 一人暮らしであれば極めて単純だ
というのは 人間が一人で生きているだけの話なのだから ゴミがどこに落ちていようと
ゴミ箱があふれていようと一人きりの問題であるからだ
これが2人 3人 ・・人との暮らしとなると面白さとともに ややこしくもなってくる
先ず 家事をやる方とやらない方という別が生じるが 気づいた方がやるということにすると
たいてい一方ばかりがやることになる
これは やらない方に悪気があるというわけではなくて 気づかなかっただけということもある
廊下にゴミが落ちていた テイッシュの空き箱が放置されていた 野菜室に古い野菜が残されている
といった事柄は 何が気になるかの話である
![](https://enjoyhiroyumilife.com/wp-content/uploads/2021/10/chuttersnap-mzMEZy9_QLM-unsplash.jpg)
気にならない人というのは 燃えるゴミの日の朝 廊下に袋詰めされたゴミ袋が置かれていても
何も気にはならないのである
ああ ゴミ袋があるな と思うことがあるかさえも怪しい ただ横を通り過ぎるだけで悪気はない
家事のルール決めは想像以上に難しいもので
それはなぜかというと 「常識」というものがそれぞれに異なっているからだ
醤油や塩の蓋をどれくらいきちんと閉めるか 玄関の靴はどの程度整然とさせるか
風呂掃除の程度などなど ある人にとっては「だいたいできているのと同じ」
ものが別の人にとっては「全然できていない」と感じられるものであったりするからだ
「家事ができない人」というのはよく 「何か手伝うことはない?」と聞く
たとえゴミ箱が溢れていても 食卓やテーブルの上に郵便物が散乱していても
たたまれていな段ボールの横に立っていてもそう尋ねる
![](https://enjoyhiroyumilife.com/wp-content/uploads/2021/10/hayley-clues-4KGH5Qzoddk-unsplash.jpg)
悪気はない むしろ役に立とうと頑張ってはいるのだ
残念ながら 家事は「役に立とう」と思い立ってやるものでも「手伝う」ものでもなくて
そこに生活する人間が365日 相手との生活を継続していくためにやっていくものだ
ということに思いが至らないためだ
自分が何かをしたことにより かえって相手の負担が増えた場合 家事としてのポイントは下がる
下手をすると最初から何もしなかった時よりも下がるので
いっそ何もしないでということにもなってしまう
家事をやる方 やらない方との距離はさらに広がってしまうことになるようだ
家事というのは 人が家族や相手と暮らしていくために生じる現象なのだからこそ
こうした家事と愛とのすれ違いに 心して 気配りを忘れずに生活していきたいものだ
では、
エンジョイ! 家事
コメント